大原のこと

わたしたちが農業を営む大原について紹介します。

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\\大原の地理//

京都府京都市左京区の北東部、小さな盆地に所在する里山です。天台宗総本山の比叡山西麓に位置し、下れば賀茂川と合流して京の都のシンボルとしても有名な鴨川となる、高野川が里を縦断・南進しています。

若狭(福井県)から京の都へと海産物を運搬する若狭街道(鯖街道)の中継地点、街道沿いの村でした。

里は南北に延びており、周囲の山々はすぐ近くにあります。よく杉やヒノキが植林されており、広葉樹はあまり見当たりません。のどかな田園風景が里の中心部には広がり、その周囲から山際にかけて集落があります。

\\大原の歴史や特産品//

比叡山延暦寺が近いことからその影響大きく、三千院・寂光院を始めたとして天台宗系寺院が数多く建立され、現在も観光の中心名所として名高くあります。

古くは、山里であることから薪や炭の生産地でした。

1200年の歴史を誇る京の都は江戸時代には30万人を超える都市として栄えていました。近郊には賀茂や松ヶ崎をはじめ、多数の農村が所在し、都市型農業は昔から盛んで伝統と産業が見事にマッチングしながら歴史を重ねる都。その都に暮らす多くのひとたちの台所やお風呂の燃料は、当時は炭や薪すなわち山にある資源でした。

洛北の村々は、昔から都に燃料を供給する地として栄えておりましたが、大原もそのひとつとして平安時代の頃から知られておりました。明治維新を経て、近代を迎えると都市部に近い洛北の村々が少しずつ開発の波にさらされ、良くも悪くも宅地開発が進む中、大原はそうした地域からは少し離れていたこともあり、今もまだ当時の姿を思い起こすことができるような田園里山景観を残しています。

当時の里山に暮らす人たちは当然自給のために野菜を育て、お米をつくっておりました。しかし、それだけでは賄えきれない村人たちの現金収入の手段として、洛北の村々が純農村経済を脱却した後もしばらくの間、大原では薪炭材を都に供給し続けていたようです。

その燃料を運搬し行商するのが紺色の筒袖で動きやすさを重視した装束の大原女(おはらめ)たち。現在も、大原女まつり、大原女行列、が春秋に行われるなど里の衣のシンボルとしてよく知られています。大原女の装束の原型は、隠遁生活を大原の地で送った健礼門院に仕えていた阿波内侍のそれだといわれています。

その健礼門院は、大原の特産品として有名なしば漬けの名付け親とも言われています。大原で種取りされ続けたしば漬けの原料である赤じそは、盆地であるがゆえ他地域との空間的断絶を大きな理由として、交配することが限りなく少ない原種に近い遺伝的特性を保持したまま現代にまで残されております。

もともとは里人が自身のために、長い冬を乗り越えるために保存食として漬けていたしば漬け。

長らく大原の村人にとって重要な現金収入のアイテムであった薪炭材は、ガスの普及により少しずつその地位を奪われていきます。そんな時に、薪炭材にかわって名産品としてそのポジションを少しずつ確たるものへと変えてきたのが、しば漬けだったようです。

\\大原の農業事情//


耕地面積としては110町分ほど。

高野川を挟んだ整備圃場の他、昔ながらの変形田の棚田が山裾に広がっています。

しば漬けの原料である赤ジソの栽培が昔から盛んでしたが中山間地の例にもれず、農村の高齢化に伴い遊休農地が増えつつありました。その状況を憂えた里の有志が鯖街道沿いに朝市を開始。京都市内から車で20分程度という好立地、有名な料理人がとりあげてくれたことなどから朝市は瞬く間に有名になりました。そこを起点に圃場整備事業や里の野菜を常時購入できる里の駅の開設、私たちのような新規就農者の受入をはじめとした農業振興事業が複合的に進み、現在に至っております。

圃場の基盤整備事業の結果か、近隣の専業農家が大原の好立地の圃場を使うなど、遊休農地の問題は少なくなっています。また里の駅大原の開設は、大原野菜ブランドの定着に多大な貢献をしているように見えます。(わたしたち新規就農者にはなくてはならない施設です)

里山の景観保全を中心に担ってきた年代層の引退が間近に控え、山林の管理や獣害への対策など中山間地の抱える問題は見え隠れしているものの、都市近郊の農村として出来ることはたくさんあるでしょう。

京都市内よりも年間平均温度が2度程低く、そのため多少の作付け時期ずらしが可能です。4月頃までなごり雪が降ることがあります。遅霜は5月初旬まで、そのため夏野菜の露地での定植は被覆資材を使用しない限り市内よりも遅れます。逆に秋冬は寒くなるのが早く、野菜の甘みはかなり早くから蓄えられます。年内は降雪はあってもしれたものですが、1-2月は年により積雪量が増減(2010年の1月は畑の雪がほとんど融けないまま積雪を繰り返し2月を迎えた)するものの、路面の凍結は日常茶飯事で市内では必要のないスタッドレスタイヤの冬場常時着用、また四駆車の活用が望ましい地域です。そのため冬場の露地野菜は根菜類がどうしても多くなります。

都市から近いにも関わらず、里山景観が残る大原でできる農業はどんなスタイルが望ましいのか。

これからどんどんと変わりゆく日本農業において、わたしたち自身もこの地でできるスタイルを模索し続ける時代がやってきそうです。


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