上野町の産物書知見(上野町惣堂文書より)

上野町の産物書知見(上野町惣堂文書より)

4/23古文書研究会、今回も楽しいひとときでした。

※古文書研究会とは、大原工房・上田寿一さんが主宰しています。長年、大原に関する古文書を解読・調査し、今を生きる人たちの指針となるよう、大原に生きてきたかつての民衆の歴史を想像する会です。そんな上田寿一さんを講師に招き、その知見をお聴きする会(古文書研究会上野町支部)を、音吹邸にて、2022年3月から毎月開催しています。

明治8年の頃、上野町内の平均年齢は29.9歳だったそうです。(明治10年の頃、上野町は33戸177人が暮らしていました)

現在はどうなってるでしょう、比較するのもおもろいね。

米、麦、菜種、大豆、小豆などを自給消費し、薪木を採集しては外貨を稼ぐ手段として大原女が売り捌きに歩いていた模様です。

当時は年間八百駄ほどの薪木を動かしていたのだとか。

「駄」とは荷駄の単位。一頭の馬が運搬する荷量のことです。一駄は差分あれど、約三十二貫目(一貫=3.75kg)。

さて、年間八百駄ってどのくらい?

3.75kg×32貫=一駄120kg
120kg×800駄=96000kg!

明治8年、上野町では年間96tもの薪木を街中に運んでいたことになります。

時代を遡りますが、宝暦の頃(1751〜1764年)、大原ではおよそ30%の方が薪木運搬の生業に就いていたそうです。

いやはや都市近郊山村の生き様よ!相当量の薪木を大原から供給していたのでしょうね。

この頃の大原や八瀬からの薪木、柴の売り捌きについては、こちら橋本暁子さんの論文が超詳しくてバリおもろいのでご参考に!

『京都近郊農山村における柴・薪の行商行動」橋本暁子2011
http://hist-geo.jp/img/archive/256_038.pdf

今回はいつもより少人数での会となりましたが、歓談が盛り上がり、とてもよい時間でした。

次回は

5/21
小野御霊神社について。

上野町の村社についてです。シークレットもやります。シークレット、毎回ほんまに勉強になります。ぜひご参加くださいませー!

※寺社の歴史だけでない、掘られてはこなかった過去の大原に確かに暮らしていた民衆の生き様そのものをイメージするのが会の骨子です。今、動いている物事、事象も丁寧に記録として残していけば、数十年数百年後に貴重な民俗史料として後世に伝わっていきます。曾祖父母さらにもっと上の世代の方々がどんな暮らしをしていたのでしょう。村社に何をお供えし、隣村とどんな関係を築いていたのか。一緒に想像してみませんか?

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